昭和57年6月3日 朝の御理解         【 末永信太郎 】

第78節 神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続い     たら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわ     ぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽     くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしま     う。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知     れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受け     ることができるぞ。




 天地の法則とか、または天地の真理とかというような事を沢山な、まあ、人。または特に宗教者が説いて参りましたが。教祖様は、天地の道理に基づく教えを下さったんですね。まあ、いかに法則を体得したところで、真理をまた追求してこれが本当だと、いよいよ本当から本当を求めて行っても。その求めて行く事が分からせてもらう事が、こんなにも有り難いおかげの世界を開く事が出けるのだ。まあ、言うなら天地の中には、ね、氏子おかげにせずにはおかんというような働きだけしかないのだと、あの、極めるという事。

 私、信心を頂くという、お道の信心を頂くという事は、ここが分かった時に、初めて神の大恩が分かるという事になるのじゃないでしょうか。神の大恩を知れば、ね、無事達者、子孫も続き、身代も出け、代勝りのおかげが受けられると仰るのですから。ね。今日、私は御神前で、あの、梅にも春という事を頂いたんです。ね。ですから、例えば梅にもいわば春という事は、春に会う事によって、花が咲くという事でしょう。ね。辛いとか、苦しいとか、言うならば寒さ、暑さを通りすぎて、ね、辛抱して行っておる内には必ず春がやってくる。いわゆる、花咲く春がやってくる。

 ね、だから、その花咲く春だけが有り難いのではない。ね。有り難い、美しい花を咲かせるまでの、言うならば、まっ、春に花が咲くならば、これは秋であろうが、冬であろうが、夏であろうが、ね。その営みというものは、ね、春が来たから花が咲くのではない。その営みというものは、ね、夏には夏の、秋には秋の働きを受けての春である。春だけが有り難いのではない。ね。私は、ね、世の中には、いや、天地の中には、ね、本当に人間を幸せにせずにはおかん働きというのは、ね、冬もあれば夏もあるという事なんです。

 ですから、はあ、夏は嫌だ、冬は寒い、凍えるというような頂き方ではなくて。ね。夏は夏の有り難さ、冬は冬の有り難さをね、分からせて頂くという事が、神の大恩を分かるという事じゃないでしょうか。ね、そういう、言うならば天地の中には氏子幸せにせずにはおかんという働きだけしかないという事は、ね、言うならば、春だけの事ではなくてです。ね。暑い夏も、寒い冬も、ね、なからなければ花咲く春に会うことは出けない。

 という事を分からせてもらう様々な手立てが、まっ、御理念によって、こう、説かれてあります。昨日、今度、記念出版になります原稿が、毎日、まっ、少しずつ読んでもらっておりますが。昨日読んだとこ、えっと、すぐ出されませんかあれは、佐田先生、恒之先生が持っとった。なかなら、よかよか。に、まあ、今のような事、ところが、あの、説いてございました。ね。

 泳ぎを例えば覚えた人は、もう、出来るだけ暑いが良いと思うでしょう。スキーの出ける人は、出けるだけ寒くて雪が降ったら、心踊るでしょう。ね。ですから、ただ冬は有り難いぞ、夏は有り難いぞと言うだけではなくて、ね、その言うならば泳ぎの術を覚えなければいけんのです。ね。雪山に望む、または、スキー上にスキーをかたげて行く楽しさ、喜ばしさというものは、ね、それが滑れるひとつの、まっ、技量というかね、が、身につくから冬は楽しいものであり、夏もまた楽しいという事になるでしょう。

 だから、夏は有り難いぞ、夏がなからなければ、冬がなからなければ花咲く春にも会えないと。なるほど、道理です。そういう事だけはね、言うなら法則とか、または真理を追求といった人達。学問的にも追求したり、分かっておる人は沢山あったけれども。ね。その、まっ、冬の有り難さ、夏の有り難さを実際に実感として出けるだけ暑いが良い。出けるだけ冬は沢山雪が降るがいいと。ほう、喜ぶ為には、その、いわば、その技術、技量というものが、ね、出けなければ、楽しさとか有り難さという事が分からないでしょう。

 私は信心というのはね、ね、ただ辛抱しなさい、必ず春がやって来る。ね、寒い冬ばかりじゃない。辛抱しなさい、辛抱しなさいという辛抱ではいけない。その辛抱というのは、身に徳を受ける修行と仰る。なら、身に徳を受ける修行とは、ただ、辛抱しとくという事じゃなくて。ね、言うならば、泳ぎの術を覚えるとか、スキーの滑り方を体得するという、そのところを私は、言うならば体得と言うのじゃないかと思うです。

 ね、そこに、んなら、四季それぞれの有り難さ、いや、いつもが有り難い。いつもが嬉しいて、いつもが心踊る、喜びというものが頂けるのです。だから、けいこなしには出ける事っじゃありませんよ、やっぱり。ね、その根本のところに、私は合楽で皆さんが分からなけりゃならん事は、もう天地の中にはね、神様の言うなら神愛だけしか本当にないんだと。ね、この天地の中には、人間を幸せにせずにはおかんという働きだけしかないんだという事を、先ずは分かる事です。ね。

 例えば、まあ、芸の世界とでも申しましょうかね。例えば歌舞伎なんかの役者さんのところでは、もう代々がその後を、ね、何代目何々、ね、菊五郎とか、何代目幸四郎とかという風に、その子や孫がそれを受け継いで参ります。信心もね、どうでもそういう本当のところを分かってね、夏冬。いや、例えば、もう四六時中が有り難いんだというね、術を覚えて。その術をね、子に孫に伝えとかにゃ駄目だと思うですね。

 もう、これだけは家の芸であると、例えば言われるその、まっ、一つの家訓、家風とでも言うか。これだけは、この家に生まれた子供が、孫が必ず体得し、覚えて行かなければならん。ほれはまあ、あの、役者さん達のお家のね、私は先だっても東京、まだ幸四郎が最後のあれは舞台になった訳でしょうけれども。あん時に、幸四郎のお孫さんが、あれは、染めごろをお襲名しました。まだ、小学校二年生。ね。

 それがちゃんと、お父さん、お爺さんを相手に立派な芸をやって退けるですからね。忠臣蔵を出しましたが、あの、一力じゃやの、力の役をやりました。だいたい、あんな小さい子供の力って初めて見ましたけども、それをちゃんとやるですからね。ね。親が子が、孫に。ね、言うならばちゃんとそれを教え、伝えておるんです。本気で教えておるのです。ように、なら子に孫にね、これは私は本気で教えなければいけないと、私は思うです。でないと、私は、ね。

 三代続いたら神の器官に叶うた氏子と仰るようなね、そういう事になって来ないと思うです。徳を残すという事は、徳を頂く道を教えとかなきゃいけん。もう、これ以外にはないと、と極めたものをです、その家の言うならば、もうここの家に例えば生まれたが最後、ね、子が孫が必ずそれを投象する。それを受け継いで行く。その信心を検証する、受け継ぐという事はです、そん為にはその、今、彼方なら彼方が、ね、本当なところを覚えとかなきゃいけない訳です。

 言うなら、神の大恩を本当に知っておかなければいけないということ。それは困ったこっちゃあるね、それは難儀な事だと言うとるような事じゃ、だから駄目だということ。難儀な事はない、困ったちゅう事はない。ね。どんな事があっても驚かんで済む、言うならば信心というものをです、これだけは子に孫に伝えとかなければならない。神の大恩を知ればと言うんなら、今日私は、言うなら梅にも春。

 なるほど、辛抱しとけば何時か時期がまわって来る。その待っとる間は寒うして寒うして、暑うして暑うしてというような待ち方ではなくて。その暑い寒いの中にです。本気に、もう夏でなからなければ味わえない。ね、冬でなからなければ楽しめないというような。ね。一つ、その技というか、まっ、信心を体得させてもらっとかな。初めて、天地の大恩が分かるという事は、そういう事だと思うです。ね、なるほどそこが分かれば、ね、子孫も続き、身代も出けという事になるのじゃないでしょうか。

 だから、これだけは、だから、譲っておかなければならない。ね。それは、んなら、歌舞伎、なら役者の事ではありませんけれども。ね、ちゃんと、言うならば子にも孫にもね、もう小さい時から、それを教えて、本当な事を教えてある。ね。そして、この世の中には、ね、人間が幸せにせずにはおかんという働きだけしかないという事を、本当に分かる。それを、私は今日は、神の大恩が分かるということは、そういう事だと思う。ね。無事達者で子孫も続き、身代も出け、代勝りのおかげを頂かせて頂く為にも、私は合楽で皆さんの一人ひとりが本当な事を一つ分からなきゃいけない。

 ね、天地の法則を勉強する、真理を追求すると言うても。ね。それを身につけて行く手立てというものは、そんなに難しい学問的な事ではなくても、身をもって体得出けれる、いわゆる御理念の実験実証なんです。持って、それをです、子に孫に確かに一つ、伝えるとこ、伝えれるだけの、言うならば信心を頂いてもらいたい。ね。それは、いよいよ、まっ、役者さんが、ね、それを子に孫に伝えて行くそれのようなものである。ね。代勝りのおかげというのは、そういうこと。神の大恩を知るということは、そういう事だと思うです。

 ね、先ずは、自分自身の、んなら、おかげの有り難さは分かっておるけれども、果たして神の大恩が分かっておるだろうか。分かっていないなら稽古しなきゃいくまい。いやあ、夏は暑かと。やっぱ、もうへこたれてしまう。もう、とても寒うして凍えるごたる、と言うだけではなくて。ね。そこにはね、冬でなからなければ味わえない、夏でなからなければ楽しめない、その泳ぎであり、スキーでありを覚えるそのところにね、私は信心のけいこと言うのはそれだと思う。

 もう、限りない神の大恩を感得して行く。ね、その、そして術をです、子にも孫にも教え伝えて行かなければならんと思うです。初めてね、そこに家の徳というかね、それが、もう自分の家の、まっ、言うならば何ち言うですか。今、団十郎のとこ、市川団十郎十一代ですかね。まあ、代々続いておるです。それ、伝えに伝えて行く。信心がいつまでも続かなきゃならんということ。ただ、金光様のお祭りして、ただ拝む事だけをおせえるというのじゃなくて。

 ね、本当に天地の大恩を分からせる為の、私は信心。または、その技量というものがです、体得されて、それを、もう確かに子に孫にも伝えて行けれる、一つ信心を頂きたい。ね、初めて、神の器官に叶うた氏子。天地の親神様が、もう願いに願っておられる、そこを分かってくれた時に、初めて神様が、ね、喜んでも下さる、安心もして下さる。ね、この世を苦の世、苦の世界にしてしまうような事のない、一つおかげを頂きたいですね。どうぞ。